2013年08月25日
道草 7
自分の癖というのは気がつかないことが多い
気がつかないからその存在まで考えることもない
多くは指摘され発覚あるいは発見するのだ
しかしそれを認めたとしてもそこから先はない
癖というのはだいたい良い意味でとらえることはない
知らずにしていた悪しき行為の代名詞が癖である
だから認めたところで悪いという意識をどこから起こさせるのか
まず本人からは立ち上がらないのだ
そして万が一悪いことだと認識しても
多くは開き直り それ以上聞こうとはしない
だから癖は癖で 永遠にそのままなのである
誰にでもひとつやふたつある
なくて七癖とも言われてきた
理性は癖をある程度までコントロールする
だから癖を見つけるのは少し深いところでもある
どこに手をやるとか首をかしげるとか
そんなんじゃなく 何かに対しての行為や対応について
理性や羞恥心が消えたとき
癖は見つけやすいだろう
だからきっと自分がどうありたいとか どのように見られているとか
そういうものは癖といってもいいのかもしれない
その癖が良性か悪性かは自分が決めるものではなく
すべて100%自分以外のものが決めるのである
存在というものは自分が思うものでなく
自分以外のものが認めた時点で始まるものであるともいえる
自分の存在を語るときにはそれは外の方向に向かってシグナルを
送っているのだ
癖をなくすと 存在すらどうでもよくなりはしないか心配でもある
だから癖を個性と呼び 互いに認め 時に修正し合いながら
存在を感じ 自分に取り込んでいるのである
それが自分の存在になる
結局は一人でどうこうというのはないってことか
いつだったかのあいつとの話だ
なぜかあいつは癖を指摘してきた
あいつの考えにのっとって
その頃の自分は どうでもいいといっても 自分への干渉には
ひどい嫌悪感をもっていたので
あいつの話に答えたくはなかった
きっとそれも 静かな水面に石を投げ込まれるようなものであった
そんな自分の態度で
その話は長く続くはずもなく
あいつのほうから切り上げたのを覚えている
それを正義と思われるのは困りものだとも思った
最後に出てきたのは「なぜ」
どうして自分が攻撃されなければいけないのか
気持ち悪さはしばらく続いたのを今も覚えている
そして今
先輩と偶然再会し飲んでいる
先輩の近況はまったく頭にはいっていないが
テーブル席には何かを探しにきたあいつ
一緒にいるのは誰?
いったい何を探してるのだろう
気になりだすとこれも悪い癖
自分の何かを探されているんじゃないかと
嫌な気分になってきた
先輩との会話も世間話に変わった
こんなこと話してる場合ではないと思いながら
不思議と冷静に対応している
日常の世界では考えられないことがおこっているというのに
怖いとかの感情はまったくない
そう いつもと違うのはそのシチュエーションだけで
それを受け入れれば 単にお店でのひとときというだけだ
すでに三杯めのビールを飲んで
さらにバーボンのソーダ割りを注文していた
酔いと冷静のはざまが徐々に狭くなっていく
こんな夜もありかと
この店に飛び込めた自分を少しうれしく思った
そのままどれくらいいたのだろう
気がつけば次の日の朝
すでにホームに立っていた
どうやって帰ったのか
そして今朝はどうやってここまできたのか
それより 家でその間 寝る以外に何してたのか
まったく記憶にない
昨日の店の記憶はある
あのあとあいつはどうしたんだろう
先輩は
終盤から記憶がおかしくなっているが
しっかりと思い出せる
通りだって あの店の看板だって
覚えてるぞ
自分に言い聞かせるように何度も
最初からひとつひとつたどってみたが
電車が着いて わんさかと人が降り
そのあとドサドサと乗り込む人の波に流されて
考えるのをやめてしまった
そしていつしか現実の世界
きょうの仕事のことで頭がいっぱいになって
夢のような昨夜のことは少しほったらかしになったのである
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